「冗談じゃないわ。あの軍神が後任だなんて」
「お母様、これからどうするの」
「タウンハウスに行くのよ」
階下から取り乱した養母セリーナと義妹ナターシャの声がする。
「何かあったの」
アゲハが侍女のミーアに声を掛けるとミーアが不安そうな表情で答えた。
「ロシェル辺境伯の後任としてアラン王子がいらっしゃると連絡がありまして、それで奥様と
ナターシャお嬢様がタウンハウスへ行くと仰っています」
「そう」
ベッドで伏せっていたアゲハは起き上がって元結で髪を束ねると、左耳でピジョンブラッドの
ピアスが揺れた。
アゲハが住むエランヴェール国ラーンジュ領は隣国との国境にある。代々この領地は戦争に備
えて王族から臣籍に下った者が治めていたが、反乱が起きて以降は国王から信頼の厚い臣下が
任命されている。つまり、辺境伯は他の爵位と異なり一代限りであり、親から子へ譲渡はでき
ない。
アゲハの父ロシェル辺境伯が亡くなって2週間。いつ新しい辺境伯が任命され、自分達が追い
出されるのかアゲハは怯えていたが、ついにその日が来た。
「アゲハ様、大丈夫ですか」
ミーアが慌ててアゲハの身体を支える。
あまり体調は良くないが、セリーナ達の騒ぎを静めないといけない。
アゲハは着替えると階下で喚いているセリーナに声をかけた。
「養母上タウンハウスに行くと伺いましたが、いつお発ちになるのでしょうか」
アゲハの声にセリーナが振り向く。
「あら、居たの。今日にでも行くわ」
「そうですか。それでしたら、私の部屋以外でしたら調度品もお持ちになってください。何か
の役に立つでしょう」
「言われなくてもそうするわ」
セリーナはアゲハの言葉に苛立ちながら答える。
いつものことだ。
元々アゲハはロシェル辺境伯家の娘ではない。
隣国が珠璃国を侵略する最中、珠璃国からエランヴェールへ逃げてきたアゲハと実母のユリを
助けたのが、ロシェル辺境伯だった。ロシェル辺境伯はユリとアゲハを匿った。だが、そのこ
とが気に入らなかったセリーナは、エランヴェールと対立していたレジンが珠璃人を探してい
ると知りレジンに密告した。
ユリを探しに来たレジンの軍人から逃れようとしたユリはアゲハを抱いて、崖から海に身投げ
した。
アゲハは奇跡的に助かったが、レジンへの密告を問われたセリーナはロシェル辺境伯の恨みを
買い、生き残ったアゲハに辛く当たるようになった。
幸い、ロシェル辺境伯やユリと一緒に珠璃国から逃れて来た人間が守ってくれたのでセリーナ
に口撃と、ナターシャに意地悪される程度の嫌がらせで済んだ。
アゲハはユリと一緒に身投げした時の後遺症で片耳が聞こえなくなり、右腰と右大腿部に原因
不明の痺れがあり、日々の生活を送るのに精一杯だったので、セリーナやナターシャのことま
で気にしていられなかった。
「調度品まで持ち出されたら困るのではありませんか」
ミーアは心配する。
「ハヤテに私が住めるような小屋を作るように依頼して。私はこれから、使用人の今後や、ア
ラン王子の出迎えの準備をする」
「承知いたしました」
アゲハは落ちていた王家からの手紙を拾うと、今後の対策を考え始めた。
セリーナとナターシャ母子が城を出てから1週間後、アラン王子一行が到着した。
事前に侍従のハンスが来て届けられる荷物の整理をしてくれたので、アゲハ達は城の隅々まで
磨いて、いつ到着してもいいように待機した。
また、アラン王子はアゲハを含むロシェル辺境伯家の使用人には留まるように言ってくれたの
で、後ろ盾だったロシェル辺境伯を亡くしたアゲハや、戦争で家族を亡くしたミーアなど行く
当てのない人間は安堵した。
「アラン・エランヴェール辺境伯が到着いたしました」
ハンスの声がして、アゲハ達はアランを出迎えた。
黒い馬から降りた軍服姿のアランは、プラチナブロンドを掻き上げて湖のようなスカイブルー
の瞳でアゲハを捉えた。
今まで、美しい男性を見たことがなかったアゲハを思わず視線を逸らしてしまう。
アゲハは今年18歳になるが、社交界デビューをしておらず領地のラーンジュに住む人間以外と
接する機会がなかった。
「大げさな出迎えはいいと言ったはずだ。ハンス」
軍神と呼ばれるアラン王子のことを、アゲハは勝手に冷徹で厳つい容姿を思い描いていた。だ
が、白皙の美貌と優雅で洗練された動作、言葉とは違い優しい笑みを浮かべてハンスを見てい
る。
「申し訳ありません」
謝るハンスを見て微笑むアランは、親しみやすい印象をアゲハに与えた
「アゲハというのはお前か」
「はい」
「執務室まで案内してくれ」
「かしこまりました」
スカイブルーの瞳で見つめられ、アゲハはドキドキしながら執務室まで案内した。
案内した執務室にはマホガニーのデスクと応接セット、書棚、ランプ以外の調度品はない。
「ずいぶん、物が少ないな」
昔からあった調度品は戦争時に食料に変えてしまった。残ったわずかな調度品はセリーナ達が
持ち出して全部無くなってしまった。しかも、アランが持って来た調度品も最低限しかない。
「最低限の物でも生活はできます」
驚くアランにアゲハは平然として答える。
「確かにそうだな」
アゲハの言葉にアランは興味深そうな顔でアゲハを見た。
ジロジロ見られているような気がしてアゲハは落ち着かない。
ハンスがティーセットを運んで来たのをきっかけに、2人はソファーに腰を落ち着けた。
アランは人払いをすると、アゲハにロシェル辺境伯のことを聞いた。
「長いこと病に伏せっていたが、領地のことは誰がやっていたんだ」
「養父の指示に従って私がやっていました」
「医師の話ではロシェル辺境伯のように卒中になると、指示を出すのも難しいようだが」
「幸い養父の卒中はそこまで重いものではありませんでしたから、口頭の指示はできました」
「なるほど」
アランは嘘がないかアゲハの瞳をのぞき込む。アゲハは必死で耐えた。
なぜなら、倒れた時にはロシェル辺境伯の意識はなく、ここ3年はずっとアゲハの独断で領地
の復興事業を担って来たのだ。その中でロシェル辺境伯のサインを偽造した回数は1度や2度
ではない。
「王家に仕える人間の中には、サインの偽造を見抜くのが得意な奴がいてね。ロシェル辺境伯
のサインが変わったと指摘している」
なぜだろうね、とアゲハを見つめる。
「卒中で手が震えるようになりましたから、筆跡が変わったのでしょう。私が手を支えること
もありましたから」
「なるほど。そうくるか」
「嘘ではありません」
アゲハはグッと拳を握り締める。
「では、これはどう言い訳をするのかな」
アランはテーブルに辺境伯交代の連絡に対して返事をしたアゲハの手紙と、ロシェル辺境伯名
でサインをした書類を出した。
「これが、どうかしましたか」
アゲハの言葉にアランが笑った。
「勝ち気そうな娘だと思ったが、やはり一筋縄ではいかないな。まぁ、いい」
アランは手紙と書類をデスクに放り投げた。
「ここからが本題だ。ハンスの報告では領民は領主に不満どころか感謝している。特に、君は
人気者らしいな」
「はぁ」
人気者と言われて返事に困ったアゲハは適当に相槌を打った。だが、アランは気にせず続ける。
「そこでだ。領地の復興は君に任せる。これまで通り活動してくれ。城内の使用人も今まで通
りで構わない。私のことはハンスに任せてくれればいい」
「え、ですが・・・・・・」
突然の申し出にアゲハは戸惑う。
「私は辺境伯として軍人の取り纏めに当たる。ただ、領地復興には王都にいる中枢の人間との
パイプが必要だろう。その時は私が交渉に出よう。これでも元王子だ。力になれるはずだ。ど
うかな」
「どうかな、と言われましても。なぜ、私に領地を任せるのでしょうか」
「君が優秀だからだ。ロシェル辺境伯の指示があっても、ここまでできる人間はいない。ラー
ンジュは他の領地に比べて復興が早く、収益も高い。私が口出しして今までの流れが悪くなっ
ても困る。違うか」
アランの指摘は正しい。だが、18の小娘に領地を任せるとは、随分変わった王子だ。
「それとも、ここを追い出されたいのかな」
急に子供をからかう言い方をしながら、笑顔を見せた。
アランの笑顔がキラキラし過ぎて、アゲハの目が眩みそうになる。
「いいえ。一生懸命務めさせていただきます」
「そんな、肩肘張らなくていい。君のペースでやってくれ。それから、今日から君は奥方代理
だ」
「はぁ?」
アゲハは息が止まりそうになった。
「私には妻がいない。というより娶る予定もない。それに、君も婚約者はいないようだ。もち
ろん、貴方が誰かと婚約する時には解消する。それまで奥方代理として振る舞って欲しい。奥
方代理が無理なら、領地経営のパートナーと考えてくれればいい」
領地経営のパートナーならいいか、とアゲハは思う。
「私も結婚は考えていませんので構いませんが」
「では、決まりだ」
アランは今日一番の笑顔を見せた。